田舎で底辺暮らし

孤独に生きながら雑多にあれこれ書いてます。

言葉の暴力性を忘れずにいたい

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ノーマル」という呼称について色々と話題になっていたようで。

Twitterなどで自分がよくチェックしている範囲では、異性のカップリングをノーマルと呼ぶことには顔を顰めている印象が強いし、私も「なーにがノーマルだ、ケッ」って思ってる。
なので、男女の組み合わせについてはヘテロとか、異性愛とか、そんなふうにしか呼ばない。


言葉というものには、それまでどのように使われてきたのかという背景があって、セクシュアリティをカテゴライズしてしまうなどデリケートな問題を含むものには、やはりみんなが慎重に接する必要があると思う。

私は女性同性愛者だが「レズ」はもちろん、「ホモ」という言葉を見かけると、すごく暴力的なものを見たような気持ちになってしまう。
そして、モヤモヤしながら目をそらさなきゃいけないような気分にさせられる。

ネットを見てると、BL愛好や百合愛好の人たちをはじめ、多くの人が差別意識や悪意がないという前置きで、これらの言葉をすごくナチュラルに使う場面に頻繁に遭遇する。
(当事者が自分を指して使ってても、個人的にはあんまり差異はない。やっぱ、できるだけ見たくはないワードである)

彼らには悪意がないから、居心地悪い思いをしながらも、見えてない聞こえてないふりをして流してしまう。
こういうことにいちいち抗議するというのは、本当にかなりのパワーが必要なのだ。

なんだかなぁ、と思いつつ、私以外の誰かが注意してくれればいいや、とそんなふうに諦めたような気持ちでいる。

だから、ちゃんと抗議して怒っている人をみると、ホッとしてしまうし、なんだか後ろめたい気持ちになる。
本当は私もちゃんと声をあげなきゃいけないんだけど、日々の生活だけで憂鬱なので、なかなかそちらにまでは力が回せないでいる。


私の母親は耳が全く聞こえない障がい者だが、小学生のとき、ひとりで下校していたら、後ろにいたクラスメイトの二人が「つんぼ」、とクスクス笑いながら言ってきた。
私は聞こえないふりをして、ひどく惨めな気持ちでそのまま帰った。

二人はちょっとふざけただけのつもりなのかもしれないが、悪意の有無に関わらず、私は傷ついた。

言葉というのは、それだけでひどい暴力になる。

特にマイノリティにとっては、その発言に抗議するために声を上げるのも本当に難しいことだったりする。

だから、自分自身も言葉が凶器になることへの想像力は持っていたいと思うし、何かを差別するために使われるような言葉には常に敏感になっていたい。

余談だが、二次やオリジナルの創作界隈でこれらの言葉に無頓着でいられたり、または批判されてもその姿勢にこだわり続ける人というのもあるみたいだけれど、それが個人的には一つの地雷発見器になっている。
あっけらかんとノーマルだのホモだのレズだのと発言する人の創作物が私に合うはずもないので、作者をチェックすれば作品読んでがっかりする前に回避できるのだ…。


差別原論―“わたし”のなかの権力とつきあう (平凡社新書)

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私家版 差別語辞典 (新潮選書)

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