田舎で底辺暮らし

貧乏喪女がネットの気になる話題など、雑多にあれこれ書いてます。

 

篠田節子「弥勒」の感想

弥勒 (講談社文庫)

弥勒 (講談社文庫)

ヒマラヤの小国・パスキムは、独自の仏教美術に彩られた美しい王国だ。
新聞社社員・永岡英彰は、政変で国交を断絶したパスキムに単身で潜入を試みるが、そこで目にしたものは虐殺された僧侶たちの姿だった。
そして永岡も革命軍に捕らわれ、想像を絶する生活が始まった。
救いとは何かを問う渾身の超大作。

同作者の「ゴサインタン」を読み終わった後、同じ南アジアが舞台というこちらを読み出しました。
舞台はヒマラヤにあるパスキムという架空の国です(途中まで、本当に実在するのかと思っていた)。
緩やかなカースト制度があり、海外留学の経験もある若い賢王がおさめている仏教美術は秀でているけど資源がない小さな国。
主人公の永岡は美術インテリで自意識の強いつまらない男というか、パスキムの仏教美術の素晴らしさを世に知らしめてやる!、と一度行って魅了されたパスキムの美術展を開催しようと奔走する中、パスキムでクーデターがあったと知り、海外出張のついでにこっそりパスキムに潜入したところから壮絶な体験をすることになります。

パスキムの抱える政治問題、国民を縛る身分や差別、人々の信仰心、極限まで追い込まれた中で人間は一体何が見えてくるのか、というかなり重いテーマの話です。

クーデターの主犯はゲルツェンという元国王秘書。
彼はパスキムを鎖国状態にして身分差別がなく、誰も飢えることのない理想郷をつくろうと考えています。
観光客の立場からみるカターという首都はとても豊かで無数の僧侶があふれる楽園のような国だけれど、それは山間部に住まう身分の低い貧しい人たちへの重税や搾取で成り立っているという歪な側面がみえてきます。
「ゴサインタン」でも、途上国特有の長閑さを観光客は一時的に楽しむけれど、その背景にある人々の貧しい生活苦を知ろうともしない愚かさを描いていましたが、この作品でも丁寧に掘り下げられていました。

豊かなカターの人々は山の村人たちを無知で野蛮な「猿」と陰で呼んで見下しており、もちろん日本人でインテリ層の永岡も同じです。
その身分の不平等さを「均す」ために、カターの人たちはゲルツェンの指導のもと兵士たちに拉致されて村に放り込まれ強制労働をし、粗末な家に住んで、配給される粗末な食べ物を食べます。
でも、それは村人たちの普段の生活で、ゲルツェンの指導があってから村人たちの食事には貴重なバターが加わりそれまでよりも豊かになっていました。

そういえば、作中で永岡がゲルツェンに反逆を試みるカターの人間に「君たちの国は少女の体を喜ぶらしいが、本当か?」って軽蔑の眼差しで問いかけられて反論できなくなる場面があるんです。
実は永岡は以前カターにきたときに、カターの歌姫(ある種の信仰の象徴みたいな存在)である少女娼婦の接待を受けて、その体験に感動していたんですよね。
外国人観光客が現地の少女を買春しておいて、本人はこの土地ではこれが習慣なのだ、って特に罪悪感も抱かず貴重な体験に夢見心地になる、っていうグロテスクさ。
宗教と結び付けられている少女娼婦のおぞましさや、気軽に彼女たちを買う外国人観光客、時勢が変化したときにうける彼女たちの扱いの残酷さなんかにゾッとしました。

ある日、労働キャンプ地で集団結婚が行われ、永岡は村人のサンモという女性と強制的に結婚させられます。
サンモを「猿」と見下して、一切の接触を持とうとしない永岡は、実は彼女がカターの人間で教師として山間部の人々の生活を改善するために自ら村に入った志の高い女性と知り、徐々に彼女と心を通じ合わせます。
サンモはカターにのみあった一夫多妻制のために、姉の夫ところに嫁ぎ、同じく嫁いだサンモの妹に男児が生まれると代わりに自分の娘を願掛けのお礼に寺院に差し出し尼僧にするという別れを味わっていました(当然、尼僧たちは惨殺されているけど永岡は真実を言えない)。
貧しい人々に課す無理な重税と、自らの辛い経験から、ゲルツェンの指導にサンモは肯定的でした。

このサンモが理路整然としつつも、自らも傷を抱える魅力的な人物で、それ故にとても辛い結果になるんですよね…。

労働キャンプの場は、途中までは食べ物も豊かになりだしてそれなりに上手くいっているかに思えましたが、結局は農業の知識もないゲルツェンたちの素人考えの無理な開拓で土壌が弱り、雨季には土砂崩れが頻発し、衛生状態の悪い環境で疫病が爆発的に流行り出します。
なんだかんだあって、あっという間に人々は亡くなり、残りの人間も飢えて地獄のような状態に。

最初は真摯にパスキム国民の幸福を願っているように思えたゲルツェンは、「今は過渡期で苦しいが、これを乗り越えれば生まれ変わったパスキムが待っている」と、すでに多くの国民が死に絶えようとしている現実を見る目を失って、夢想の世界に逃げ込んでいる始末。

最愛のサンモは栄養状態が最悪の中で、運悪く妊娠。
堕胎のすべもなく、流産するにしろ出産するにしろ、母体の栄養と体力を赤ん坊がごっそりと奪っていく危機的な状態で、永岡は人の死肉を食らい、なんとか自分に配給されたなけなしの食べ物をサンモにあげて命を繋いでいましたが、サンモは力尽きてとうとう亡くなります。

善良な女性の登場人物がこういう悲惨な最後を遂げるのがつらくて、正直かなりダメージくらいました…。
サンモは作中色々あったピンチを乗り越えてきたから、もしかして最後まで生き残るのでは、って期待したんですけどね。
後半は怒涛の展開というか、美しかった国が恐怖政治によってどんどん瓦解していく様がリアルである種ホラー小説ですよ。

全てを失った永岡の心の境地から、人間が生きるための精神的な救いとはなにか、と問いかける作品でした。
とても面白かったんですけど、気軽に読むにはヘビーすぎる内容ではあります。