田舎で底辺暮らし

孤独に生きながら雑多にあれこれ書いてます。

篠田節子「ゴサインタン―神の座」の感想

神の座 ゴサインタン (文春文庫)

神の座 ゴサインタン (文春文庫)

豪農の跡取り、結木輝和はネパール人のカルバナと結婚したが、両親が相次いで死に、妻の奇異な行動で全財産を失う。怒り、悲しみ、恐れ、絶望…揺れ動き、さまよいながら、失踪した妻を探して辿り着いた場所は神の山ゴサインタンの麓だった。現代人の根源にある、魂の再生を力強く描く第10回山本周五郎賞受賞作。

輝和は地元の名士、結木家の次男で、なんとも冴えない40代の男性。
(優秀な兄は実家と折り合いが悪くてとっくに海外に出て家庭を持ち、莫大な財産の相続は放棄している)
豪農というか、実際は沢山持ってる借家の賃料で食ってる状態で、持て余した土地で建前として輝和が農業をしている。
見合いをどれだけやっても実らず、最終手段として海外から妻を迎えることに。

その海外女性との見合いというのが、工場で働いてるアジア圏の女性たちを、何百万も仲介業者に払った日本の男性たちがじろじろ品定めするという感じで、非常に感じが悪い。
言葉もよくわからないような女性たちに番号をつけてずらりと並べ、本人たちは意図をよくわかっていなくて、どうみても人身売買。
輝和は母親の言うがままにネパール人の女性・カルバナを妻にすることを決めて、見た目も日本人っぽいしということで勝手に淑子(学生時代に片思いしていた女性の名前)という名前をつけて呼ぶ。

輝和の母親は完璧な大和撫子というか、結木家の一切を取り仕切って非常に人当たりもよくて人望厚く、質素を旨とし、寝たきりの夫の介護も外部には任せずに全て自分でやっている。
要するに、日本において良くも悪くも理想的な母親像である。
一方で、輝和という男性は読み進めるうちに「あぁ、これは日本の典型的男性の姿を具現した人物なんだな」というのがよくわかってくる(読後の解説にもそう書いてあった)。
自分の妻のことは全部母親にまかせて、他人事。
言葉が通じずコミュニケーションがとれない妻に寄り添うこともせず、日本の文化だけを押し付ける。
快活な女性には反発を覚え、卑屈になる。
淑子に貞淑さを求めるのに、自分はさっさと浮気して、気に入らないことがあれば妻に暴力を振るう。
まぁ、こんな感じで本当にクズっぷりが半端ないw

日本語の覚えが極端に悪かったり、衛生観念が大きくズレてる淑子が結木家の嫁として相応しくなるよう年老いた母親は根気強く付き合うけれど、全く上手くいかず、徐々に家の中がおかしくなり始めて、輝和の両親は次々と亡くなり、淑子が摩訶不思議な人智を超えた力を発揮し始める。
淑子は結木家の莫大な財産をどんどん人にばら撒く奇異な言動をみせて、家はあっという間に没落してゆき、更に病を治したり予言をしたりして新興宗教の教祖的立場に祭り上げられる。

輝和はそれを忌々しく思いながらも淑子の人神の力のせいか、彼自身が結木家の抱え込んでいる業を手放したいと思っているからなのか、土地や財産を淑子に言われるがまま手放す羽目になり、無一文のどん底まで落ちる。
しかし、淑子を中心とした小さな宗教団体は軌道に乗り始め、無農薬野菜などの自給自足の生活をビジネスとして拡大してゆき、社会の爪弾きになって淑子の元に集まっていた弱い立場の人々の生活は安定し充足しはじめる。
もう自分の出番は終わったとばかりに、淑子は忽然と失踪。
輝和は淑子の存在を求めて、ネパールにまで飛び立つ。
貧困、女性の過酷な労働、人身売買、人々の無知からくる命取りの病、政治問題、そういうネパールの地で輝和というどうしようもない男がゴサインタン(神の住む所という山)まで淑子を追いかけていき、極限の状態の中で自分の価値観を捨て、己と向き合う成長記になっていた。

ある意味、フェミニズム的な読み物といえると思うし、面白かった。
ネパールで若い女性たちが民族衣装で山道を歩いて行く姿を輝和は「天女」のようだ、と美しさにうっとりするのだけど、彼女たちの実際の生活は非常に過酷で、女にだけ課せられる重労働ゆえに長生きも出来ず、今の日本が失った古き好き素朴さがある、なんて途上国を呑気に褒め称えることがどれだけ愚かなことか、うまく描かれていた。
そういう自分の愚かさに、輝和はネパールで生活することでどんどん気付かされてゆくのだ。

ただ、色々と淑子がみせる人神のような力の理由ははっきりとは明かされず、昔から弱者を搾取して財を成してきた結木家を支えてきた女達の思いが淑子を通して貯めこんだ財を解き放ったのかな、ってなんとなく察するしかなく、そこはちょっともったいないというか残念な感じもあった。

今は、同作者の同じように南アジアを舞台にした「弥勒」を読み始めている。これもなかなか面白い。

弥勒 (講談社文庫)

弥勒 (講談社文庫)